だんだんと春が近づいてくるようだ

  放課後「美琴は俺の嫁」と2人でカラオケ。穴場的で地味なカラオケ屋だったのだが、超ハイスペックなサービス(最新機器とかマイク4本とか立派な部屋とか曲数とか)に対して、1.5時間で僅か1000円。感動的だった。

  そして帰宅後、Amazonからレポート用2冊を含む4冊の本が届いていた。帰ったときに机の上に例の箱が置いてあったときの、あの高揚感というか感動を味わえるのは今だけだろう。毎回快感を得られる。

 

西村良平「広報・雑誌づくりのらくらく編集術

広井 良典「コミュニティを問いなおす

中川八洋「民主党大不況(カタストロフィ)

櫻井 治男「地域神社の宗教学

 

  櫻井は5000円で中古もなかったのだが、文献がないので仕方なく購入してみた。専門書ということもあり数十年前の古臭い本だろうと思っていたところ、なんと昨年の10月出版の本であったので非常に嬉しかった。しかも目次と章立てを見るだけで完全にレポートの構想と一致。恐らく水曜日には仕上げられるだろう。

 

  石川九楊「縦に書け!」を読了。英語は縦書きになどしないのになぜ日本語を横に書いて違和感がないのか、などと現代日本の風潮をインターネットやパソコン、ケータイなどを含めて大きく批判していた。2ちゃんねるなどで言えば恐らく「老害乙」と言われるであろう内容ではあったが、なかなか為になる本だった。そしてそのなかで「ディベート」について批判されていたのが、印象深かった。これまで特に疑問を持たずに議論のゲームとして楽しんでいたのだが、言われてみればおかしなゲームだとも思う。

 

  そもそも、あのディベートなるものは、いったい何なのでしょう。あるテーマを決め、実際の信条や思想とは関わりなく、一つのグループが「反対」の理論を構築してそれを展開し、他のグループが「賛成」論を展開して、お互いに議論し合うというルールのゲームのようですが、話し言葉上の、信じてもいない議論のための議論にいったいどんな教育効果があるのでしょうか。ただただ口先のうまい、詐欺師のような人間を大勢つくり出すだけで、言葉のカをいっそう弱めるばかりではないでしょうか(139p)。

 

  確かに言われてみれば、自分の信念を曲げて詐欺師のようになってどうするんだとも思える。先生が終了後に「アメリカのやり手の弁護士のようだ」と褒めているのを聞いたが、それは詭弁家、嘘つきの代名詞ではないか。子供達を社会に適応させようと画策して、結果おかしな教育をするのが流行っているような気がする。子供に「社会の現実」を教え、嘘を付くという「処世術」を言わなくとも良いのではと思う。自分の主張があったとしてもそれを曲げて場に合わせろ、という教育は道徳的と言えるのか。疑問である。