よくもまあ毎日こんなに長文を

  理科英語歴史の暗記と、数Aの宿題(体系から36題)の完成。昔読んだ日本史のシリーズ物の本を何冊か探してきて江戸時代の項を読破。改めて幕末維新期も面白いなと思った。

  その後は、今日発売で今日買った「正論」誌を適当に斜め読み。あまりのクオリティの低さに愕然とする。「保守系」の知識人ら50人が「救国内閣」と銘打ってそれぞれ理想の閣僚を挙げるという興味深い特集があったのを新聞広告で見たので、久しぶりに買ってみたのだ。だが、例によって「産経文化人」というか「『正論』執筆者陣」というか、いつもいつも産経新聞辺りに出てきては同じようなことを述べている人々ばかりが50人。そしてその選ばれた「内閣」の「閣僚」も、ほとんどが櫻井よしこ氏や西村眞悟氏などこれまた産経御用達のいつものメンバー。だいたい、幾ら「理想の」であるからといっても、「田母神俊雄防衛相」や「小泉進次郎首相」「西尾幹二首相」などが本当にあり得るのか。祖国の危機がここまで切迫しているのに、このような「妄想」で「救国ごっこ」にかまけていてどうするのだろう。「この内閣で一度地獄を見て、悔い改めない限り日本の再生はない」などといって「小沢一郎首相」「鳩山由紀夫外相」などバカのオンパレード内閣を書いている「哲学者」もいたが、ここにきてヤケを起こして国を滅ぼそうなどどうかしている。もはや諦観も垣間見えるではないか。馬鹿げている。

  ところで、父の本棚から見つけた、勝田吉太郎氏の「民主主義の幻想」という本を読んでいたのだが、「価値観の多様化」についての記事があったので引用してみたい。1985年に書かれたものでありながら現在にも通用する多くの金言に満ちている。

 

  善と悪とを分ける規準も、今ではどこかあやふやなものとなっている。美醜を区別するけじめも消失して、"自分の感性に訴えるもの"、――"フィーリング"を刺激するものが良きものであり、真実のものであり、美しいものであると受けとられているではないか。評論家たちはそれを"価値観の多様化"という流行語で呼んでいる。流行語とは、誰もその意味するところを深く究めもせずに万人が語るように気楽に語ることばのことであり、紋切り型の符牒と化したことばを投げ合うことで思考の貧血症状をうみ出してしまう。つまるところ、一切のけじめの失われた時代、これが現代の特徴ではないだろうか。しかもそれは、民主主義の進行したはてにたち現れる文明の様相と無縁ではないようだ。

  ここで私は、たんにわが国の社会風俗を念頭においているだけではない。流行語と化した"価値観の多様性"とは、哲学的用語に翻訳すれば"価値相対主義"にほかならない。そして価値相対主義とは、まぎれもなく当今流行の哲学なのである。それを醸成した思想的風上は、前世紀にまで遡ることができるであろう。すなわち、目的論的世界観の崩壊、形式主義的カント倫理学に淵源する倫理の主観主義化、人間を神への方向からはずして動物界へと結びつける進化論の流行、実証主義と歴史主義の拾頭、人間倫理を諸々の階級道徳へと還元するマルクス主義など、これら一切の思潮が、価値相対主義の出現のために思想的な地ならしをした、といえるであろう(勝田吉太郎「民主主義の幻想」日本教文社 1986 29p)。

 

  「価値相対主義」についてはまた紹介するが、なんとも鋭い論考ではないか。この本の他のところにも書かれていたが、相対主義ではヒトラーとスターリンを拒否できないのである。「多様化」を認めてしまっては、どのようなおかしな考え方(人を殺してもいい、盗んでもいい、など)でも否定することが出来なくなる。結局行き着くのはニヒリズムでしかないのではないか。

 

 

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  明日水曜日とか欝すぎる。最近、月刊・隔月誌「正論」「表現者」「win100%」を買ったので既に金が厳しい。高杉ワロエナイ。試験中・後で遊び歩くことを考えると死にたくなる。本でも読んで閉じこもろう。